まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

行動には背景があり、それは感情とは別のもの

数年ぶりに参加した授業は「ダルシャン」の意味のおさらいから始まりました。参加者は先生と初対面ではないリピーターの人ばかりだったようで、基本の確認から始まりました。
「ダルシャン」というインドの言葉を日本語にするときは、英語で「Philosophy」を使われることが多いため「哲学」とされることが多く、このブログのタイトルも「哲学」という日本語をあてていますが、厳密には「視点のありかた」「意識のあつまりかた」のほうがニュアンスとしてより近くなります。


初日はその背景の話から始まりました。

ダルシャンというのは <"みる" という行為> であり、即座の認識であり、ただ目で見ていることではなく、目の奥でもみていることです。
目の奥には、深いプロセスがあります。

引用箇所は自分のノートの日本語訳です。このような説明から始まりました。
ヨーガのダルシャンは心理学的な要素を多く含んでいるため、その後も授業ではフロイトカール・ロジャースといった心理学者の唱えた説や療法との共通点があげられることが何度かありました。

 


わたしはシャルマ先生のヨーガ心理学の話を聞くのがインドの道場にいた頃も毎回楽しみで、それは日々行う練習の意味に結び付けて説明をしてくれるから。
朝の練習でときどき先生とマットで横並びになることもありました。シャルマ先生は座学担当でしたが、アーサナの練習クラスに生徒としてときどき参加されていました。
この日は、その後の説明がこんなふうに展開されました。

行動には背景があります。
感覚の経験と感情の経験が招集され、"納得" が起こります。
あなたのマインドがそのようにつくられるのです。日常的な認識とは別のものです。
大切なのは自分が何を経験したかで、全体としての自己の理解はそういうものです。
ヨガの練習は "経験すること" をしています。

 

経験が "橋" をつくります。
さまざまな経験は、それぞれが直接的にはつながらなくてもアイデアにつながります。
イデアはマインドから起こります。

「あなたのマインドがそのようにつくられるのです。日常的な認識とは別のものです。」の箇所はメモに「make up your mind」「not ordinaly perception」とあるので、「マインドがそのようにはたらくのです」のほうがより先生の意図するニュアンスに近いかもしれません。

経験が橋をつくることについては、6年前に書いた以下の内容と関連します。

だれもあなたの部屋を片づけにきてはくれない

今日書くことも、久しぶりに受けたシャルマ先生の授業の初日のお話からです。
先月に書いた「Howではじまる問いの中にいましょう」というお話のあとに、先生はわたしたちに以下のように言いました。

 だれもあなたの部屋を片づけにきてはくれない。
 スニルも、パタンジャリも、ブッダも。

この授業は心のはたらきについての授業なので、「僕はあなたの意識や感情の片づけはしないよ、自分でしかできないことだから」というわけです。スニルというのはシャルマ先生の名前です。
その少し前段階で話されていた「問いを Why から How にする」ということと結びついているのですが、自分の名前を先頭に持ってくるところがこの先生の話しかたのおもしろさであるなぁと思いながら聞きました。

 

このお話の少し前に、ブッダはすべての人に対して個々に基本的な質問をした、という話がありました。
納得は当人のなかでしか起こらないことを前提とした説得は、個々への基本的な質問であったという流れでお話されていました。
パタンジャリというのは、ヨーガ・スートラを残した人と言われている人物の名前です。

How ではじまる問いの中にいましょう。Why を先頭に置けば質問になるわけではありません

2020年の6月から、8年ぶりにシャルマ先生の授業をオンラインで受けています。

その内容のなかに、これを初日から言うところがすばらいと思うお話がありました。
人生の問題について、「なぜ悪い…」というふうに、「なぜ」「なぜ」「なぜ」と問うていくとエンドレスです、という話。

why, why, why…, には logic, logic, logic, の回答が対になる、これが哲学の罠だ。

人生の問題について理由を探しをして解決するだろうか? どこにもたどり着かない。ぐるぐる回るだけだ。

というお話を何度か、いろんな話しかたで説いてくれました。

 

この罠について、先生はこのように言い換えます。

why = everything

Why と言えば質問になるわけじゃない。How の問いの中にいましょう。

ヨーガの哲学の授業は基本的にダルマとカルマを学ぶことがベースになっているので、このメッセージはその後の展開と紐づいています。
Why ではじめる質問は、自分の人生の主体であろうとする意識がなくても立てられる問い。これを使ってそれがさも人生の質問のように問うことの無責任さについて目覚めさせるようとされている。この学びは、目覚めを目指しているものであるはずだよね? と、直接的ではない言い方をされる。

ヨーガを含めてインドで生まれた考え方はフィロソフィ(哲学)でなくダルシャン(視点)なので、まずこの点について履き違えないでほしいということを、先生はやさしく伝えてくれます。


「なんでこうなのか、知っていますか? こうだからですよ」と勝手に問いを設定してくれて持論を話す、世間にはこの構図があふれています。先生も何度か事例を話すときに「Instagramにもよくこんなメッセージ(広告)が流れてくるよね」と実例フレーズを織り交ぜていました。
この日の先生のお話は、問いを立てる主体について認識させる土台作りをされていたように思います。