まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

サーンキヤ・カーリカーのこと

 サーンキヤー・カーリカー(Samkhya Karika)は、4~5世紀にサーンキヤ哲学の教義をイーシュヴァラクリシュナ(人名)がまとめた書で、日本ではサーンキヤ頌(しょう)と表記されることが多いです。註釈をガウダパーダ(人名)が残したものが、翻訳され、伝えられています。

サーンキヤー・カーリカー」は、有名なヨーガ関連の書物を比べると、こんな感じです。

  • バガヴァッド・ギーター ⇒ 神の詩、聖典
  • サーンキヤー・カーリカー ⇒ こころのはたらきの仕様書
  • ヨーガ・スートラ ⇒ 修行で確認できた事項をヨーガ学派としてまとめたもの
  • 11世紀以降のハタ・ヨーガ技術書⇒練習マニュアル

内容が、「仕様書」っぽいのです。Wikipediaっぽい。こころのはたらきに関わる心身のパートについて、ブレイクダウンして述べていく。

パタンジャリのヨーガ・スートラでは2章18節でサーンキヤ・カーリカーの56節~63節の内容が要約されています。その後も2章の27節までは同じ教義が書かれます。その流れから2章25節でいちど「独尊位」の定義をヨーガ学派として書く。この定義の細かさがヨーガ哲学のおもしろさですが、ここはサーンキヤ哲学と連動しています。


 さきほど「こころのはたらきの仕様書」と書きましたが、わたしがサーンキヤに魅せられる理由がここにあります。世の中にはさまざまな名前のついた心理学がありますが、どれも人間社会だけの学問で、いつまでも続く分析をいつまでも追いかけていくファッションのように見えます。わたしも以前は、さまざまな心理学の書を膝を打ちながら読むのが好きでした。
その後インド思想の勉強を続けるなか、サーンキヤ・カーリカーを日本語化してみてからは、「こころ」というものが小さなつぶつぶから成っている、立体的なものとして存在ようになりました。この感覚があると、「こころ」が頭に支配されにくくなります。社会的な人間が動物としての人間になるとき、そこには理性を欠いた獣のようなイメージがつきまといますが、サーンキヤの教義を理解しておくと、そこのバランスをうまく見つけられそうな気がするのです。とても感覚的な話ではありますが、これが、わたしがサーンキヤ哲学に魅せられる理由です。


 もう少し、物理的な理由も書きます。
サーンキヤー・カーリカー」は、「ヨーガ・スートラ」に比べるとあまり有名ではありません。残っているコメンタリー(註釈)が少なく、格言のような書かれ方ではないからでしょう。世の中には、格言のように要約してわかりやすく、情緒的な言葉で書かれたものの方がこころに響く人が多いようですが、わたしは完成度の高い仕様書のほうが好きです。
こころに響くフレーズは、文字通り「響いて」しまうがために、響いている瞬間はどこかが麻痺してしまう感覚があります。サーンキヤ・カーリカーは、特に前半は淡々と猛スピードでブレイクダウンしていきます。最後までそれで突っ走っていたらたいへんかっこよい学問なのですが、途中からそうでもなくなってくる甘さも含めて、たいへんツンデレな教義です。このように、トータルで見るとたいへん魅力的な書なのですが、わかりやすい生活訓に結びつきにくいため、あまり人気がありません。でもそこが、哲学としては堅牢なシステムと感じられます。

日本人にインド哲学を伝えようと思うと、人生訓のようなものを求めるスタンスに気持ちが引っ張られてしまうことがあります。「学問としてのヨーガ」と「耳障りのよい Way of Life」は油断をするとすぐ融合するのですが、ここではその誘惑をグッと抑えつつ、サーンキヤ・カーリカーを紹介していきます。


(2013年に複数の英文から日本語化したものをベースにアップしていきます。全部で72項あるのですが、自分用の日本語をこの場で読みやすい日本語にする「日日訳」のほうが時間がかかり、下書きをすでに1年以上寝かせてしまったため、書きながら公開していくことにします。もともとそんなにメジャーではない書なので、先を急がずにやっていきます)

 

<参考>
▼日本語でサーンキヤ・カーリカーを読める本

▼英語では、この本を読みました

▼漢文が読める人には、こちらもおすすめ