まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ビンゴでギーター 2章62節と63節

(※2019年に東京で選定者が増えたため加筆しアップデートしました)

この節は関西で2名、関東で6名のかたが選定されました。理由をお聞きすると、怒りから破壊へのプロセスの説明がわかりやすいということでした。それぞれ以下のようなコメントでした。

  • 何度も読んでいるのですが、毎回自分の解釈が違うことに驚きます。昔は「執着」があるからこそつらいことも頑張れるのになぁと思っていた時期もありました。最近は、なんとなく「冷静さ」を失うことが一番危ういと思えるようになったので、この「怒りから迷妄が生じ」の部分に強めに同意する自分がいます。(東京・Yさん)
  • ギーターを読んでみたらなにが言いたいのかさっぱりわからないところも多いですし、ツッコミどころも満載でなかなか前に進まないなか、この節は気になりました。(神戸・Sさん)
  • 愛着→欲望→怒り と繋がるところが気になりました。はじめは「愛着→欲望」はわかるのだけど「欲望→怒り」がなんでかな、と思いました。でもよく考えてみると、戦争もまずは「自分の家族を大切にしたい」という思いがあって、それが、幸せにしたい→できない→貧富の差でできない(よそからとってやれ、など)というふうになったりするのかなと。テロリストの行為も、もともとは愛する対象を幸せにできないことへの怒りからはじまるのかなと。(東京・Kさん)
  • 最近のストーカー犯罪に対しての加害者の存在を思い起こされたのと、餃子の王将社長の銃撃事件を思い出しました。報道では社長さんは毎朝誰よりも早く出勤してきて自ら本社の玄関掃除などをされたり、全国の王将の社員の顔を覚えていたりと「人格者」のような感じで報道されていたのですが、“恨み”(執着)を持たれてしまうということがあるのだなと…。自分も何か分からないあいだに巻き込まれているようなことがあるかもしれないと京都に住んでいる(王将本社の近くに住んでいる)友達と話していました。(神戸・Hさん)
  • ある日会社の後輩の行動にすごくカチンときてしまいました。あとで冷静になって考えてみれば、本当に気にするようなことではない内容なのです。しかし、なんだかその時はものすごくモヤモヤしました。その後「自分がやった仕事に対する執着だ」と冷静に分析できました。(東京・Aさん)
  • 夫と些細なことで口論となった時、言った言わないの水掛け論になることがあります。相手を説き伏せようとしても、権力争いを続けるだけで解決にはなりません。ギーターのこの部分を読んで、その仕組みがわかった気がしました。勝とうと思わないことにしました。負けず嫌いという相手の性格を変えるのは難しいので、その事態に、自分の心の問題として「いま相手は、記憶の混乱が起こって知性を失っているのだな。こちらの言葉は受け入れない状態だな」というふうに、眺める自分に変わることはできると思うので。自分のほうが正しいと思うけど、争うのはやめておこうという段階です。(東京・Yさん)
  • 欲望と、変な行為にとらわれた人の気持ちや行動の流れがうまく説明されていて、なるほどと思いました。ストーカーや、誰でもいいから殺したかったという人、殺人でなくても盗撮をする人も、欲望にとらわれて他が見えていないと感じます。身近なことでは、ストレスの多い職場にいたときの夫は扱いずらかったことを思い出しました。(東京・Iさん)
  • 人との距離が近い職業ほど、情緒の統制が難しいと感じます。夜勤が続いて精神的・肉体的疲労がピークな時ほど、患者さんから暴言を浴びせらたりするのは不思議です。しんどくてマズい時は、いつかニュースでみた痛ましい事件を思い出し「明日は我が身?」と、脅かしクールダウンさせるような状況が続いています。医療従事者のマニュアルには「統制された情緒関与」といって、「どういう状況であっても客観視せよ」というようなことが示されているのですが、「そうは言っても…」ということがあります。(東京・Kさん)

この2つの節は人間の怒りの感情の仕組みとその先にあることを示すもので、たった4行でよくもこんなにシンプルに表現するものだと唸る節でもあります。

人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が彼に生ずる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる。
怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破壊する。
上村勝彦 訳


ほとんどが仕組みの説明のため、日本語では翻訳者ごとのニュアンスの幅がそんなに広がることがありません。
英語版の例もあわせて表にします。(訳者敬称略)

サンスクリット語 上村 田中 熊澤 iPhoneGita SWAMI RAMA
sanga 執着 愛着 執着 執着 執着 attatchhment attatchhment
kama 欲望 欲望 欲望 欲愛 欲望 desire desire
krodha 怒り 怒り 怒り 忿怒 忿怒 anger anger
moha 迷妄 妄想 妄想 迷妄 迷妄 delusion delusion
smrti 記憶 記憶 記憶 記憶 記憶 memory memory and loss of mindfulness
vibhrama 混乱 混乱 混乱 混乱 混乱 confusion confusion
buddhi 知性 知性 理性 智慧 理性 reason faculty of discrimination

ここではスワミ・ラマの例を出しましたが、サンスクリット語→英語の場合は日本語の感覚とはまた違った妙味があります。
スワミ・ラマの英語を経由して日本語化すると、スムリティは「記憶そしてマインドフルネスの喪失」、ブッディは「分別能力」。現在はさまざまな心の状態を示す語がカタカナで使われるようになっているので、若い世代にはこちらのほうがスッと入ってくるかもしれません。


(参考)さまざまなギーター本はこちらで紹介しています。
uchikoyoga.hatenablog.com

ヴァールミーキの「ラーマーヤナ」は責任について書いている

インドの人が英語で話すときに使う「responsibility」は、日本語でいう「責任」とは少し違うニュアンスです。
ヨーガの授業でシャルマ先生がヴァールミーキの「ラーマーヤナ」は責任について書いているという話をしてくれたことがありました。
そのとき先生がお話されたことのメモとして、こんなフレーズがありました。

 

  • how responsible(責任感)
  • how can we(われわれに何ができるか)
  • what is possible(何が可能か)

 

ラーマーヤナ」では敵には敵の論理があって、悪の世界で喜怒哀楽をあらわにします。その悪役が哀しみにくれる場面の描き方には「ざまあみろ」という視点がまったくなく、とても平坦でありながら、胸が締めつけられる思いを誘う内容です。
神様の話=模範的な善でつじつまがあって悪は成敗されるものということにはなっていません。勧善懲悪の物語を無意識レベルで期待している状態で読むと、これが「responsibility」について書かれた物語だというところに気づくことができません。聖人も王も猿も善人も悪人も、それぞれが自分の「responsibility」をやっている。


この授業のノートを見直してから「ラーマーヤナ」を読み、インドの人が英語で話すときに使う「responsibility」は役割分担を前提とした責任ではなく、もっと広い意味で「ものごとを受容して自己をいかす」という意味なのではないかと理解するようになりました。

 


(参考)

感覚を細分化して理解する

ヨガクラスの始まりや終わりのときのガイドの背景について書きます。

座って目を閉じるガイドをするとき、わたしは以下のようなフレーズを使います。

 目を閉じて、目の玉を奥に引っ込めて

 まぶたの内側のチラチラから意識を離すように、感覚を奥に引っ込めて

これは一例です。
このようなガイドは、器官としての「目」と知覚としての「視覚」は別物であることを伝えるために入れています。
便宜的にわかりやすくするために「まぶたの内側の毛細血管チラチラした動きをつかまえないように、目を奥に引っ込めてください」という言いかたをすることもあります。これは「お勉強モー ド」「なるほどモード」のほうが散漫な向上心を鎮めやすい、日本人に納得してもらいやすいフレーズとして見つけたものです。便宜的にそう言っています。

わたしはヨガクラスで、ときどきその奥にあることを噛み砕いて話すのですが、ヨーガの練習においてこの理解はとても重要なので、あたらめてここに詳しく書きます。

 


器官と蓋

目と口は蓋を閉じることができます。まぶたと唇がドアのようになっていて、ドアを閉じることができます。
耳と鼻には蓋がありません。耳に耳栓をしたり、鼻血が出れば綿を詰めたり、蓋はなにかで代用します。
鼻が粘液で詰まっているときは口で呼吸をするので、口はあまり意識せずに半開きになることがあります。

 

 

アイマスクがあるのはどうして?

 「アイマスクがあるのはどうして?」と、考えたことはありますか。

答えはもちろん睡眠に集中するため。まぶたがあっても、光はまぶたを通過して入ってくると感じる。それによって眠りに入れないことがある。

でも、眠れるときは明るい場所でも眠れる。身体が疲れていたり、あるいはずっと起きていて睡眠欲求が最大化されて砂漠のように乾いた状態になっていれば、睡眠状態に入れます。
昼間に活動する生活をしている人は夜暗い時に睡眠をとり、朝に光を知覚したら目を覚まします。夜勤などで朝や昼に寝る人は、まぶたの外に光を知覚していても、睡眠状態に至ります。

 

 

まぶたの内側で情報をとりにいこうとしている状態、というのがある

「耳がダンボ」みたいに、「目がダンボ」という状態があります。

 

f:id:uchikoyoga:20190819142557p:plain
 

まぶたを閉じた状態で外部の動きが気になっているときというのは、「耳がダンボ」という状態を目でやっている感じ。閉じたドア耳をくっつけているのとも似ています。
ドアと耳の関係とは違い、目の場合はまぶたが自分の身体の一部なので、これはジレンマを発生させる状態です。

わたしは、瞑想の練習で挫折する人のほとんどはここじゃないかと経験から推察しています。

 

 

インド人の視点、ものごとの捉えかた

ヨーガはサンスクリット(語)で説明がされていますが、サンスクリットの単語の構成を分解すると、そもそも以下が分けて捉えられています。

  • 目は器官(indriya)
  • 視覚は知覚(jnana)

人間には目に見えないものも捉えることができる。それが知覚。存在と認識を分解して理解しようとします。鼻と嗅覚でとなりの建物から匂ってくる「さんまを焼いた状態」を捉えることと、地球の反対側で起こっていることを察知する人を並列で語ろうとします。

おもしろいのは、サーンキヤの教典で「まぶた」が「近すぎて見えないもの」に分類されていることです。以下に「存在しているけど認識されない」ものがリストアップされています。

 

 

注意力が機能していない状態にする

ヨガクラスでは、これもまた便宜上「感覚を引っ込める」と言っていますが、サーンキヤ・カーリカーに沿ってより細かく言うと「目も耳も鼻も舌も皮膚もぜーんぶ、情報を獲りに行くのをやめてください」ということです。

 サーンキヤ・カーリカー第7節の

 

 注意力が機能していない

 

という状態を目指します。

安心していられる環境で注意力を必要としない状態をつくり、瞑想の練習をします。

 

 

日常のなかに題材がたくさんある

このことは、日常のなかで観察してみるとよいです。
例えば耳は、コーラスで「この曲をハモりましょう、あなたは高音のほうをお願いします」といわれたら、次にその曲を聴くときに高音のほうを獲りに行こうとします。意識的に低音を排除できることもあります。
近所の工事の音が異常に気になっていたら、工事をしていないときにもなんとなくその音があるかのように感じたり、工事のない日も頭の中で音を獲りに行こうとするなんてこともあります。

前者の例はポジティブに対象を探す状態で、後者はネガティブに対象を探す状態ですが、対象を探していることには変わりがありません。

そもそも「耳がダンボ」という表現を共有できる時点で、ほとんどの人はこの仕組みを身体レベルで理解しています。頭で納得させてくれる説明をありがたがるのは、別の欲求を満たしてくれることへのありがたがりです。(この欲については今日の本題とは違うのでここでは掘り下げません)

参考:

 

 

「漠然とした高揚」「漠然とした不安」と「知覚の散らかり」

対象にフォーカスすることをしていない散漫なときは、漠然となにかを獲りに行っています。「なんかないかなー」と。ポジティブ・ネガティブいずれにしても

 

 散らかった知覚

 

という状態があります。

自己啓発本を買いたくなるときのマインドを観察してみるとわかりやすいです。本屋さんが楽しいのもここを満たしてくれるからだろうと、わたしは自分の感覚からそう理解しています。

 

 

瞑想の練習中は「なんかないかなー」をやめる

わたしはサーンキヤとヨーガの練習を通してこのことを学んできたのでマインドフルネスという言いかたはしないのですが、言わんとすることは似ているかなと感じています。

今日書いたようなことを身体を使って学んでいく場面では、自分の経験からわたしは以下のように言います。

目を閉じて、目の玉を奥に引っ込めて

まぶたの内側のチラチラから意識を離すように、感覚を奥に引っ込めて

 

長くなりましたが、以上がわたしの表現・ことば選びの背景です。

なんかないかなー、を休止して自己を休める。そういう瞬間を自分自身でつくりだすことはむずかしい。その前提の上でガイドをしています。

散漫な向上心を満たすことを最優先しているマインドの状態の人でも、なるべく自己を休める状態に近づけるよう、「正しさ」の面では完全に正確ではない表現を意識的に選ぶこともあります。