まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

感覚を細分化して理解する

ヨガクラスの始まりや終わりのときのガイドの背景について書きます。

座って目を閉じるガイドをするとき、わたしは以下のようなフレーズを使います。

 目を閉じて、目の玉を奥に引っ込めて

 まぶたの内側のチラチラから意識を離すように、感覚を奥に引っ込めて

これは一例です。
このようなガイドは、器官としての「目」と知覚としての「視覚」は別物であることを伝えるために入れています。
便宜的にわかりやすくするために「まぶたの内側の毛細血管チラチラした動きをつかまえないように、目を奥に引っ込めてください」という言いかたをすることもあります。これは「お勉強モー ド」「なるほどモード」のほうが散漫な向上心を鎮めやすい、日本人に納得してもらいやすいフレーズとして見つけたものです。便宜的にそう言っています。

わたしはヨガクラスで、ときどきその奥にあることを噛み砕いて話すのですが、ヨーガの練習においてこの理解はとても重要なので、あたらめてここに詳しく書きます。

 


器官と蓋

目と口は蓋を閉じることができます。まぶたと唇がドアのようになっていて、ドアを閉じることができます。
耳と鼻には蓋がありません。耳に耳栓をしたり、鼻血が出れば綿を詰めたり、蓋はなにかで代用します。
鼻が粘液で詰まっているときは口で呼吸をするので、口はあまり意識せずに半開きになることがあります。

 

 

アイマスクがあるのはどうして?

 「アイマスクがあるのはどうして?」と、考えたことはありますか。

答えはもちろん睡眠に集中するため。まぶたがあっても、光はまぶたを通過して入ってくると感じる。それによって眠りに入れないことがある。

でも、眠れるときは明るい場所でも眠れる。身体が疲れていたり、あるいはずっと起きていて睡眠欲求が最大化されて砂漠のように乾いた状態になっていれば、睡眠状態に入れます。
昼間に活動する生活をしている人は夜暗い時に睡眠をとり、朝に光を知覚したら目を覚まします。夜勤などで朝や昼に寝る人は、まぶたの外に光を知覚していても、睡眠状態に至ります。

 

 

まぶたの内側で情報をとりにいこうとしている状態、というのがある

「耳がダンボ」みたいに、「目がダンボ」という状態があります。

 

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まぶたを閉じた状態で外部の動きが気になっているときというのは、「耳がダンボ」という状態を目でやっている感じ。閉じたドア耳をくっつけているのとも似ています。
ドアと耳の関係とは違い、目の場合はまぶたが自分の身体の一部なので、これはジレンマを発生させる状態です。

わたしは、瞑想の練習で挫折する人のほとんどはここじゃないかと経験から推察しています。

 

 

インド人の視点、ものごとの捉えかた

ヨーガはサンスクリット(語)で説明がされていますが、サンスクリットの単語の構成を分解すると、そもそも以下が分けて捉えられています。

  • 目は器官(indriya)
  • 視覚は知覚(jnana)

人間には目に見えないものも捉えることができる。それが知覚。存在と認識を分解して理解しようとします。鼻と嗅覚でとなりの建物から匂ってくる「さんまを焼いた状態」を捉えることと、地球の反対側で起こっていることを察知する人を並列で語ろうとします。

おもしろいのは、サーンキヤの教典で「まぶた」が「近すぎて見えないもの」に分類されていることです。以下に「存在しているけど認識されない」ものがリストアップされています。

 

 

注意力が機能していない状態にする

ヨガクラスでは、これもまた便宜上「感覚を引っ込める」と言っていますが、サーンキヤ・カーリカーに沿ってより細かく言うと「目も耳も鼻も舌も皮膚もぜーんぶ、情報を獲りに行くのをやめてください」ということです。

 サーンキヤ・カーリカー第7節の

 

 注意力が機能していない

 

という状態を目指します。

安心していられる環境で注意力を必要としない状態をつくり、瞑想の練習をします。

 

 

日常のなかに題材がたくさんある

このことは、日常のなかで観察してみるとよいです。
例えば耳は、コーラスで「この曲をハモりましょう、あなたは高音のほうをお願いします」といわれたら、次にその曲を聴くときに高音のほうを獲りに行こうとします。意識的に低音を排除できることもあります。
近所の工事の音が異常に気になっていたら、工事をしていないときにもなんとなくその音があるかのように感じたり、工事のない日も頭の中で音を獲りに行こうとするなんてこともあります。

前者の例はポジティブに対象を探す状態で、後者はネガティブに対象を探す状態ですが、対象を探していることには変わりがありません。

そもそも「耳がダンボ」という表現を共有できる時点で、ほとんどの人はこの仕組みを身体レベルで理解しています。頭で納得させてくれる説明をありがたがるのは、別の欲求を満たしてくれることへのありがたがりです。(この欲については今日の本題とは違うのでここでは掘り下げません)

参考:

 

 

「漠然とした高揚」「漠然とした不安」と「知覚の散らかり」

対象にフォーカスすることをしていない散漫なときは、漠然となにかを獲りに行っています。「なんかないかなー」と。ポジティブ・ネガティブいずれにしても

 

 散らかった知覚

 

という状態があります。

自己啓発本を買いたくなるときのマインドを観察してみるとわかりやすいです。本屋さんが楽しいのもここを満たしてくれるからだろうと、わたしは自分の感覚からそう理解しています。

 

 

瞑想の練習中は「なんかないかなー」をやめる

わたしはサーンキヤとヨーガの練習を通してこのことを学んできたのでマインドフルネスという言いかたはしないのですが、言わんとすることは似ているかなと感じています。

今日書いたようなことを身体を使って学んでいく場面では、自分の経験からわたしは以下のように言います。

目を閉じて、目の玉を奥に引っ込めて

まぶたの内側のチラチラから意識を離すように、感覚を奥に引っ込めて

 

長くなりましたが、以上がわたしの表現・ことば選びの背景です。

なんかないかなー、を休止して自己を休める。そういう瞬間を自分自身でつくりだすことはむずかしい。その前提の上でガイドをしています。

散漫な向上心を満たすことを最優先しているマインドの状態の人でも、なるべく自己を休める状態に近づけるよう、「正しさ」の面では完全に正確ではない表現を意識的に選ぶこともあります。