まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

身近な人の習慣を嫌うのは同一視によるもの

ヨーガ・スートラの第1章1節~4節の説明する授業の中で、心のはたらきについて、先生が日常の事例で話をしてくれました。
心のはたらきの「はたらき」の部分はサンスクリットでは vrtti. シャルマ先生は英語で behaviour という言い方で話されていました。
心のはたらきはいつも「なにか新しい対象」を求めていて、「新しい対象」がなくなるとネガティブな面が出てくる。記憶は「心のはたらきの反応」だと話されていました。

わたしはこれらの話の中で、ヨーガ・スートラの第1章4節で述べられる「自己との同一視」について、先生が挙げられた事例がとても印象に残っています。
以下を、Identification with behavioues.(心のはたらく対象と自己の同一視)の事例といってお話されていました。

 

  • うちの子が優秀なのは、先生がいいから
  • タバコを吸う友人の習慣を嫌うのは、自分と友人を同一視するから
  • もし不死の世だったら、死者を敬うこともない


ここではわかりやすくするために「もし不死の世だったら、死者を敬うこともない」を最後に書きましたが、授業ではこれが先に話され、生徒は「???」となるのだけど、ほかの事例と照らし合わせてみていくと、同じこと(心のはたらきのメカニズム)についてを話していることがジワジワわかってくる、そういう流れでした。
同一視=悪い状態、という意味ではなく、同一視=自己が自己をみている状態ではない、ということ。

 

このあと先生はもうひとつおもしろい事例をあげていました。そのときにその場にいた髪の長いTATOさんという男性を見ながらこんなふうにおっしゃいました。

  • TATOの長い髪はすてきね、と誰かが言ったとする。TATOは髪を切るのをやめようと思う。

たしかにこれも同一視なのです。

シャルマ先生の授業は話の順番や構成が示唆に富んでいて、7年後にノートを読み返しながら唸ることがいまでもあります。
授業を受けながら自分が理解力のある生徒であろうとして、「お勉強」と「自己」を同一視して、「勉強をしている自分である状態」に、自分自身が反応し続けようとしていた。これは何年もあとになって気づいたことです。

偏ったり保守的なふるまいのモードから抜け出すこと

ヨーガ・スートラの第1章2節について、インドで受けた授業のノートから、先生のお話が今になってずっしりくる。そんな振り返りをかねての紹介です。
ヨーガ・スートラの第1章2節はこの節です。

 心の作用を止滅することが、ヨーガである。(参考

この「作用」にあたるのが、サンスクリットでは vrtti という語。


授業ではこの vrtti について分解し、先生が別の言い方で話してくれました。授業は英語だったのでわたしのほうで日本語化して書いています。

 偏ったり保守的なふるまいのモードから抜け出すことが、ヨーガである。(先生談)

偏り、保守的と訳したところは biased と reactionary 、ふるまいと訳したとことは behaviour.
vrtti というのは心の修正・変更作用だという話をしてくれました。

 

この授業を受けてから8年になりますが、授業のノートの内容が年々ずっしりと響くようになっています。
先生が言い換えて話してくれたこの教えは、ぼんやりとニュース情報を追っているときに陥りがちな心のモードにそのまま当てはまります。

ビンゴでギーター 12章17節

この節は東京で2名のかたが「刺さった節・気になった節」として選んでいました。それぞれ以下のような理由をお話いただきました。

 

  • 最近抜け駆けをされて人に出し抜かれてしまったことがあり、心がひどく乱れ、この節が深く沁みました。敬愛するものに対しての自分のスタンスを再確認することで、心を鎮めることができました。(東京・Kさん)
  • 看病をしているときに支えになった言葉のひとつなので、選びました。
    自分が何か影響を及ぼせるかもしれないと思うと、それが善意であっても相手から無意識の反発を食らいやすいし、うまくいかなかったときには自分もつらくなります。(東京・別のKさん)

 

この節は仏教などでも見られるよくある説法のようでありながら、文末が特徴的です。

喜ばず、憎まず、悲しまず、望まず、好悪を捨て、信愛(バクティ)を抱く人、彼は私にとって愛しい。
上村勝彦 訳

 

どんな物事にも喜ばず悲しまず
こうあって欲しいとも欲しくないとも思わず
吉凶禍福に超然として心動かさぬ者
このような人をわたしは愛する
田中嫺玉 訳

 

それぞれサンスクリットは以下の語で書かれています。(対応する日本語は上村勝彦訳で添えます)

  • hrsyati(喜)
  • dvesti(憎)
  • socati(悲)
  • kanksati(望)
  • subha(好)
  • asubha(not 好 ⇒悪 / 先頭にaがつくとnotの意。反対の意味)

 

 

バガヴァッド・ギーターのこの節を読むと、わたしは「ヨーガ・スートラ」の第1章33節を想起します。

他の幸福を喜び【慈】不幸を憐れみ【悲】、他の有徳を欣び【喜】不徳を捨てる【捨】態度を培うことによって、心は乱れなき清澄を保つ。
スワミ・サッチダーナンダ/伊藤久子 訳

 

慈、悲、喜、捨はそれぞれ他人の幸、不幸、善行、悪行を対象とする情操であるが、これらの情操を想念することから、心の清澄が生ずる。
佐保田鶴治 訳


それぞれサンスクリットは以下の語で書かれています。(対応する日本語は佐保田鶴治訳で添えます)

  • maitri(慈)
  • karuna(悲)
  • mudita(喜)
  • upeksa(捨)
  • sukha(幸)
  • duhkha(不幸)
  • punya(善行)
  • apunya(not 善行 ⇒悪行 / 先頭にaがつくとnotの意。反対の意味)

 

心の状態を示す語はヨーガ・スートラ、バガヴァッド・ギーターでそれぞれ別の語が用いられていますが、とてもよく似た節としてわたしは捉えています。
ヨーガ・スートラは心の取扱説明書のような淡々とした記述ですが、バガヴァッド・ギーターはクリシュナが対話型で説いてくれています。