まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ヨガの練習は狂い止め・怒り止め・流れ止め

昨年の大きな環境変化のなかで行ったヨガクラスの冒頭で話したことを覚えてくださっていた人が、そのフレーズを寸分違わずメールにさりげなく書いてくださり、その時話したことを思い出しました。
その日は、練習の前にわたしが何年もかけて実感してきたことを話しました。アーユルヴェーダの3つのドーシャを、自分はヨガを通じて精神面ではこのように捉えているという話をしました。ヨガのメンタル面での効用について。
こんな話をしました。

わたしはヨガが狂い止め(カファ・カパ)、怒り止め(ピッタ)、流れ止め(ヴァータ)に役立つと思っています。

 

この3つのなかの怒り止め、ピッタは、いちばんわかりやすく説明不要かと思います。ここに効果を感じてヨガをしている人はけっこう多いのではないかと思います。アンガー・マネジメントなんて言ったりもしますしね。

 

そして流れ止めというのはヴァータです。風の性質と言われたりしますが、イメージとしては(野比のび太がなにかから逃げて走るときに足が車になっている、あの絵のような心の状態といったらイメージしやすいかもしれません。

 

そして、いちばんギョッとしたであろう狂い止めは、狂うなんて言ったら大げさに聞こえるかもしれませんが、こういうことです。
これはカファ(カパ)。鈍性と訳されたりしますが、どっしりするとか安定するとか、ポジティブな面もありますが、変化を嫌う性質とも言えます。状況の変化を嫌うあまり、頭の中で情報を自分のそうであってほしい状態に寄せていく。それが過剰になると、現実とどんどん乖離の幅が広がっていって、その幅が大きくなった状態で第三者と話したときに、他者の視点から見たら狂っているように見える。わたしは、狂うというのは自分だけではわからないので、そういうギャップのことかと思っています。

 

同じ水(H2O)でも常温ならさらさら、熱すれば蒸発し、凍れば固まりになる。同じものが転変(パリナーマ)すると捉えるのが、ヨガの視点です。

ヨガクラスの前に話すことは少しだけにしているので、このくらいのことを話したかと思います。

 
わたしはときどきヨガの練習の後に「なんでこんなにこのことに固執していたのだろう」と、一瞬自己を対象から切り離して見られる瞬間があります。その経験を繰り返すことで、日常でなんだかおかしいなと思う瞬間に「いつの間に自分はここに固執したのだろう」「もともとどちらでもいいと思っていたのに、片側にいったん視点を定めて雑に固執しているな」ということに気づくことができるようになりました。


トリドーシャという性質の捉えかたを知ったばかりの頃は、強く主張するのはピッタが優勢で、物事をさっさと片づけ(やっつけ)たくなるのもヴァータやピッタの優勢だろうかと捉えていたのですが、双方と紐づきやすくさらに根っこにある「変化したくない」「安定したい」という意識にも目を向けるようになりました。
トリドーシャはどれかひとつの要素の優勢をとらえて鎮めるよりも、すべてが連動している前提でバランスを探していく視点を持てる瞬間を得る。ヨガのメンタル面でのメリットは、そういう視点の獲得かと思います。


これを書いたのは2021年になって関東で再び緊急事態宣言が出された翌日です。

これからしばらく、多くの「安定したい」というエネルギーがあふれることを想像して書きました。

行動には背景があり、それは感情とは別のもの

数年ぶりに参加した授業は「ダルシャン」の意味のおさらいから始まりました。参加者は先生と初対面ではないリピーターの人ばかりだったようで、基本の確認から始まりました。
「ダルシャン」というインドの言葉を日本語にするときは、英語で「Philosophy」を使われることが多いため「哲学」とされることが多く、このブログのタイトルも「哲学」という日本語をあてていますが、厳密には「視点のありかた」「意識のあつまりかた」のほうがニュアンスとしてより近くなります。


初日はその背景の話から始まりました。

ダルシャンというのは <"みる" という行為> であり、即座の認識であり、ただ目で見ていることではなく、目の奥でもみていることです。
目の奥には、深いプロセスがあります。

引用箇所は自分のノートの日本語訳です。このような説明から始まりました。
ヨーガのダルシャンは心理学的な要素を多く含んでいるため、その後も授業ではフロイトカール・ロジャースといった心理学者の唱えた説や療法との共通点があげられることが何度かありました。

 


わたしはシャルマ先生のヨーガ心理学の話を聞くのがインドの道場にいた頃も毎回楽しみで、それは日々行う練習の意味に結び付けて説明をしてくれるから。
朝の練習でときどき先生とマットで横並びになることもありました。シャルマ先生は座学担当でしたが、アーサナの練習クラスに生徒としてときどき参加されていました。
この日は、その後の説明がこんなふうに展開されました。

行動には背景があります。
感覚の経験と感情の経験が招集され、"納得" が起こります。
あなたのマインドがそのようにつくられるのです。日常的な認識とは別のものです。
大切なのは自分が何を経験したかで、全体としての自己の理解はそういうものです。
ヨガの練習は "経験すること" をしています。

 

経験が "橋" をつくります。
さまざまな経験は、それぞれが直接的にはつながらなくてもアイデアにつながります。
イデアはマインドから起こります。

「あなたのマインドがそのようにつくられるのです。日常的な認識とは別のものです。」の箇所はメモに「make up your mind」「not ordinaly perception」とあるので、「マインドがそのようにはたらくのです」のほうがより先生の意図するニュアンスに近いかもしれません。

経験が橋をつくることについては、6年前に書いた以下の内容と関連します。

だれもあなたの部屋を片づけにきてはくれない

今日書くことも、久しぶりに受けたシャルマ先生の授業の初日のお話からです。
先月に書いた「Howではじまる問いの中にいましょう」というお話のあとに、先生はわたしたちに以下のように言いました。

 だれもあなたの部屋を片づけにきてはくれない。
 スニルも、パタンジャリも、ブッダも。

この授業は心のはたらきについての授業なので、「僕はあなたの意識や感情の片づけはしないよ、自分でしかできないことだから」というわけです。スニルというのはシャルマ先生の名前です。
その少し前段階で話されていた「問いを Why から How にする」ということと結びついているのですが、自分の名前を先頭に持ってくるところがこの先生の話しかたのおもしろさであるなぁと思いながら聞きました。

 

このお話の少し前に、ブッダはすべての人に対して個々に基本的な質問をした、という話がありました。
納得は当人のなかでしか起こらないことを前提とした説得は、個々への基本的な質問であったという流れでお話されていました。
パタンジャリというのは、ヨーガ・スートラを残した人と言われている人物の名前です。