まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

プルシャは分離して存在する

サーンキヤ・カーリカー 第19節・その注釈で述べられていること

(この節は第11節「根本原質としてのプラクリティ」との対比の形で語られています)

それゆえ、(第11節と)の反対の関係にあるため、プルシャが以下であることが立証されます。


独立分離していること ニュートラル・中立な立場であること 見る能力を発揮する主体であること

<「サーンキャ・カーリカー」内でのこの節>
この節まででプルシャの存在の説明をし、次節からはプラクリティとの「関係」の説明になります。


<日本語化の意図メモ>
ここは第11節と対比した定義のしかたで書かれています。
yoga.hatenablog.com

表にすると、こうです。

第11節 プラクリティ 第19節 プルシャ
トリグナによって成り立つ 反対⇒トリグナに依存しない
トリグナと分け隔てがない 独立分離している・中立の立場
標的・対象になりえる 反対⇒標的・対象になりえない
一般的 反対⇒一般的ではない=個々に違う
意識がない 見た者であること・見る機能の主体
生産性がある 反対⇒生産性がない

このようにしてみると、この節ではプルシャの独立分離の立場と主体の立場が強調され、それ以外のところは「11節とは反対で」という言いかたでまとめられているのがわかります。
「こころ」を物質体・精神体に分けてとらえようとしたときに、こころの中にさらに主体があぶりだされるというプロセスです。
その主体は「生産性のない、一般化できないもの」というふうにとらえると、「こころ」というものの存在が浮き立ってくる。わたしには、そのように見えます。

そして、この節の「中立であること」には、次節の第20節に出てくる「udasina」でなく「madhyastha」という語を使用しています。
この部分については、この両語が並んで使われている「バガヴァッド・ギーター」の以下の節を読むとさらにニュアンスの理解が深まりそうです。

「バガヴァッド・ギーター」上村勝彦 訳 より

【6章9節:BG6-9】
親しい者、盟友、敵、中立者、中間者、憎むべき者、縁者に対し、また善人と悪人に対し、平等に考える人は優れている。

ここでの中立者が「udasina」、中間者が「madhyastha」で交戦国の仲裁者という意味で使われています。
「無関心・無頓着 ⇔ 混ざらない・なんなら仲裁する立場をとる」このグラデーションがたいへんおもしろく、中立でいるのにも意志が必要であるという視点で読むと、微細な深みが出てきます。


<用語メモ>

それゆえ、したがって、そのため(tasmac)
対照、対比、逆の、反対の、転倒、息を吐き出すこと、(viparyasa)
確立した(された)、認められた(siddham)
目で見る、目で見る目撃者(saksi,saksitvam)
プルシャ(purusasya)
分離、孤立、独存、対象への執着からの分離(kaivalya)
中立の、ニュートラルな、無関心(madhyasthyam,madhyastha)
中間に位置する、平凡、並(madhyata)
中間、中心(madhya)
見る機能の主体(drastrtvam)
見る能力、見る機能(drastritva)
作用のない状態、はたらきのない状態、作因のない状態、(akartrtva / a=not)
行為の主体の状態、あらゆるパフォーマー・作者などの状態(kartrtva)
行為の主体にならない状態で存在する(akartribhava)


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