サーンキヤ・カーリカー 第19節・その注釈で述べられていること
(この節は第11節「根本原質としてのプラクリティ」との対比の形で語られています)
それゆえ、(第11節と)の反対の関係にあるため、プルシャが以下であることが立証されます。
独立分離していること ニュートラル・中立な立場であること 見る能力を発揮する主体であること
<「サーンキャ・カーリカー」内でのこの節>
この節まででプルシャの存在の説明をし、次節からはプラクリティとの「関係」の説明になります。
<日本語化の意図メモ>
ここは第11節と対比した定義のしかたで書かれています。
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表にすると、こうです。
第11節 プラクリティ | 第19節 プルシャ |
---|---|
トリグナによって成り立つ | 反対⇒トリグナに依存しない |
トリグナと分け隔てがない | 独立分離している・中立の立場 |
標的・対象になりえる | 反対⇒標的・対象になりえない |
一般的 | 反対⇒一般的ではない=個々に違う |
意識がない | 見た者であること・見る機能の主体 |
生産性がある | 反対⇒生産性がない |
このようにしてみると、この節ではプルシャの独立分離の立場と主体の立場が強調され、それ以外のところは「11節とは反対で」という言いかたでまとめられているのがわかります。
「こころ」を物質体・精神体に分けてとらえようとしたときに、こころの中にさらに主体があぶりだされるというプロセスです。
その主体は「生産性のない、一般化できないもの」というふうにとらえると、「こころ」というものの存在が浮き立ってくる。わたしには、そのように見えます。
そして、この節の「中立であること」には、次節の第20節に出てくる「udasina」でなく「madhyastha」という語を使用しています。
この部分については、この両語が並んで使われている「バガヴァッド・ギーター」の以下の節を読むとさらにニュアンスの理解が深まりそうです。
【6章9節:BG6-9】
親しい者、盟友、敵、中立者、中間者、憎むべき者、縁者に対し、また善人と悪人に対し、平等に考える人は優れている。
ここでの中立者が「udasina」、中間者が「madhyastha」で交戦国の仲裁者という意味で使われています。
「無関心・無頓着 ⇔ 混ざらない・なんなら仲裁する立場をとる」このグラデーションがたいへんおもしろく、中立でいるのにも意志が必要であるという視点で読むと、微細な深みが出てきます。
<用語メモ>
それゆえ、したがって、そのため(tasmac)
対照、対比、逆の、反対の、転倒、息を吐き出すこと、(viparyasa)
確立した(された)、認められた(siddham)
目で見る、目で見る目撃者(saksi,saksitvam)
プルシャ(purusasya)
分離、孤立、独存、対象への執着からの分離(kaivalya)
中立の、ニュートラルな、無関心(madhyasthyam,madhyastha)
中間に位置する、平凡、並(madhyata)
中間、中心(madhya)
見る機能の主体(drastrtvam)
見る能力、見る機能(drastritva)
作用のない状態、はたらきのない状態、作因のない状態、(akartrtva / a=not)
行為の主体の状態、あらゆるパフォーマー・作者などの状態(kartrtva)
行為の主体にならない状態で存在する(akartribhava)
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