サーンキヤ・カーリカー 第20節・その注釈で述べられていること
それによって、それらが結合したときには、まるで無感覚な微細体(リンガ)があたかも意識を備えているかのような状態になります。
また、グナが活動の主体であるのに、ニュートラルなもの(プルシャ)が行為の主体であるかのようになります。
<「サーンキャ・カーリカー」内でのこの節>
意識の発生のしかたを説明する節です。
リンガという語がはじめて登場します。リンガについては第40節、第41節、第52節、第55節でも述べられます。
<日本語化の意図メモ>
トリグナ、プラクリティ、プルシャそれぞれの説明を経ての節なので、この節自体はシンプルです。
世界のはじまりを物質であったとするか、意識であったとするか、というのがインド思想の各派の分かれ道でもありますが、サーンキヤはどちらでもない立場に見えます。「リンガ」という物質的かつ精神的な融合体の設定で、それが可能になっています。
日本人の先生がたの訳を見ると、以下のようになっており
この、意識を乗せる媒体のようなものの扱いのむずかしさがうかがえます。
英語の辞書で引いてもこれだけあります。
image of a god,gender,crude base or uninflected stem of a noun,sign,guise,any assumed or false badge or
mark,token,disguise,characteristic,sign of gender or sex,idol,organ of generation,emblem,landmark,inference,proof,eternal
procreative germ,spot,reason,evidence,symptom
夏目漱石の書く「非人情」は、この結合(samyoga)のない状態を指しているのではないか思います。
サーンキヤ哲学はリンガをどうにも訳せないところが最大の難問ではないでしょうか。
<用語メモ>
それゆえ、したがって(tasmat)
あの、あれ、このように(tat)
結びつき、結合、連帯(samyoga)
無感覚な、無知覚な、非常の、生命のない(acetana / a=not)
知性、意識(cetana)
直観力を備えているかのように(cetanavad iva)
知の力が+存在する(cetana+vad)
~かのように、~として 英語のas,like(iva)
リンガ、しるし、あらわれ、展開する主体、微細な身体(linga)
グナが存在し活動する状態(gunakartrtve)
行為の主体の状態、あらゆるパフォーマー・作者などの状態(kartrtva)
行為の主体として+存在する(kartrtva bhavaty)
無関心な、無頓着な、ニュートラルな(udasina)
▼次の節へ
▼インデックスへ