まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

プルシャは存在する

サーンキヤ・カーリカー 第17節・その注釈で述べられていること

すべての集合体はなにかの目的のためにあります。トリグナとは逆のもの(トリグナによって構成されないもの)にコントロール権限があります。

 

プルシャは経験する主体としてそこに存在します。「独立して存在するための活動」というものがあります。

 

<「サーンキヤ・カーリカー」内でのこの節>

 グナのはたらきをじっくり述べた後、プルシャの説明に入ります。サーンキヤ哲学では、自己の存在をプルシャに置き、自然法則をグナに帰すものとします。

 

<日本語化の意図メモ>

最後の「独立して存在するための」は、第68節で目的が達成されたあとのことが述べられるので、それにあわせました。

この第17節は「すべてはグナから成り立っているのではなかったの?」とツッコミたくなる流れからプルシャの存在の説明に入っていて

1=「目的があるから理由がある」「目的があるから活動がある」と言い切る。

2=そこにグナと反対の概念の登場。

3=2の主体の存在を述べる。

4=それをグナの存在と結びつける。

5=だからそれ(主体=プルシャ)は存在する。存在する以上は影響しあうグナとは別の存在のしかただ。

という流れで、1から2への展開が強引なので、はじめは2が理解しにくいかと思います。

この2の存在の言い切りを貫くのが、サーンキヤ。これがない立場をとるのがヴェーダーンタ哲学で、「万物はグナに帰する」とすると、その後をヴェーダーンタ側からサーンキヤを吸収しに行く文体で統合できてしまいます。

万物はグナに帰する ⇒ 万物はそれを創造したブラフマン・神の戯れ(マーヤー)⇒ ブラフマンと一体化するアートマンこそ自己

(※グナに帰さない存在でないと、プルシャの在りどころがない)

 「感じる主体」の独立した存在のしかたを主張するのがサーンキヤの立場です。ここで語は Kaivalya が使われます。これは仏教で「独尊」と訳されることのある*1語ですが、サーンキヤの場合はすぐれて独立した存在ではなく、シンプルに「分離した立場」という意味です。

 

<用語メモ>

すべての合成物(要素からなる集合体)によって(samghata)
他の目的のために(pararthatvat)
トリグナとは逆(trigunadi+viparyayat)
反対の、逆の(viparyayat)
コントロールするもの、サポートするベース、力、権威(adhishthana)
プルシャが存在する(puruso'sti / purusa+asti)
そこに○○として存在する、there is ~ as the ○○(asty)
経験する主体の存在、享受者(bhoktribhava / bhoktri+bhava)
○○者、~する主体、経験する主体、ユーザー(bhoktri)
分離、独立のための、独立して存在するための、独存のための(kaivalyartham)
分離、独立(kaivalya)
活性化させる、活動する(pravrittes)

 

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*1:ヨーガ・スートラでもその訳し方を見ます