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まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、インド六派哲学のサーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ブッダはブッディストか?

インド授業の小話

これは、ひたすら問答を繰り返すスタイルで行なわれる、ある日のヴェーダーンタ哲学授業での問い。アシシ先生が、生徒にこう問いかけました。

 

 「ブッダはブッディストか?」

 

一瞬あたまが、 ?!☆□@*?!  と、なりますね。

ヴェーダーンタお得意の、混同を誘って整理していく練習です。

冷静に考えると、ブッダは固有名詞なのでさておき「ブッディスト」というのはどういう状態か。どうやらここに視点を置くとよさそうだ……

と考えているうちに、授業はいきなりエクササイズに入ります。同じような問いを繰り返していきます。

 

 

 singer と sing の関係は?

 lisner と listen の関係は?

 creator と creation の関係は?

 believe と believer の関係は?

 

 

Buddha と Buddhist の関係は、これらと同じではない。

 

 

(ニヤリとしながら)

 「ブッダはブッディストではないよね」と、先生。

 

 

フォロワーがいるからブッダはブッダと呼ばれるのであって、ブッダ自体がブッディストなわけではない。冷静に考えるとわかる混同や混乱は日常の中にたくさんある。まさにこれがマーヤー(幻)であり、モーハー(妄想)のもとでもある。世界があるからわたしがあるのか、わたしがあるから世界があるのか。世界とわたしの境界を意識しているのは、わたし。

ヴェーダーンタ哲学の大きな要素に「多様性を認める」ということがありますが、「関係」にあいまいなイメージで境界をつくることが、ハードルをこしらえる行為そのもの。

先生が「われわれは、このことを超えていかなければいけないよ」といったのは、きっとそういうことだろう。

 

 

幸か不幸か。善か悪か。正しいか間違いか。

バガヴァッド・ギーターで「二元論の超越」に挑むアルジュナは、妄想を止める思考のエクササイズをひたすら繰り返します。なんと18章も粘ります。つきあうクリシュナの根性もそうとうなものです。

こころの贅肉も、きっとエクササイズで落とすことができる。

インド哲学には、そのためのアイデアがたくさん詰まっていています。