サーンキヤ・カーリカー 第15節・その注釈で述べられていること
(前の節で「識別できないものであっても、いま展開していないだけで存在はしている」とみなされるべきだ。と主張した理由として以下をリストアップする)
数や量は切られるから 関係性があるから 力によって活動するから
原因と結果に区別があるから すべて形をもつものには区別がないから
<「サーンキヤ・カーリカー」内でのこの節>
第14節で述べたことを、自然のはたらきによって展開するものの状況を拾い上げ、理由としてリストアップしています。
<日本語化の意図メモ>
【補記】上記の4番目まで、事例として註釈で語られること(服部正明訳をベースに)
- 壷は一定の量の粘土から作られて大きさが決まる⇒粘度(原因)の量で大きさ(結果)が限定される
- 共通するものには、同じ原因がなにかしら存在するであろう
- ごま油はごまからできる。がれきからはできない
- できあがった(結果)の壷には水を入れることができるが、材料(原因)の土の塊には水を入れることができない
最後の事項がとくにむずかしいのですが、物体はどこから生まれ、どこに消えてゆくのかという疑問の矛先として「原因」を語っています。
この項はおもに以下の太字の箇所を語りながら、その前後も背景に含んでいます。
(どこか) ⇒ 目に見えない原因 ⇒ 目に見える原因 ⇒ 結果 ⇒ いずれなくなる ⇒ (どこか)
目に見える・見えないは「実展開プラクリティ」「展開済みプラクリティ」です。
インドのスワミのコメンタリー説法(参考)では、2番目の「共通性」の部分に職能(神聖なフレーズを書く子どもの親はブラフミン=バラモンの子 である)を事例としており、この項は各スワミの事例の引き方で個性がでる、下敷きとしてたいへん広がりのある項です。
一元論のヴェーダーンタ哲学では、上記の太字の前後の(どこか)をアートマンとして掘り下げていきます。サーンキヤ哲学では第17節から、原因と結果を認識する主体(プルシャ)の定義に入っていきます。
<用語メモ>
切る、刈る(bhedanam)
数量、計る、大きさ、重さ、長さ(parimana)
連携、調整、共同、共通、対等関係(samanvaya)
力、能力(sakti,shakti)
活性化させる、活動する(pravrittes)
原因(karana)
結果、行為(karya)
区別、違い(vibhagad,vibhagat)
原因と結果の区別(karana+karya+vibhagat)
区別がない、違いがない(avibhagad,avibhagat / a=not)
すべての形を持つもの、目に見えるもの(vaisvarupyasya)
すべて(sva)
形をもつもの、目に見えるもの(rupyasya)
※vaiは強調や断定のときに置かれる
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