まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

とぼけたふりをしながら、ちゃっかり選んでいるわたしたちのこと

2020年の6月現在、8年ぶりにシャルマ先生の授業をオンラインで受けています。
インドの先生が話す英語を即座に理解できる人ならリアルタイムで爆笑できることも、わたしはあとで辞書を引きながら何時間もかけて自分のメモを訳していくことで、やっと理解します。


その日はヨーガの哲学と心理学をベースに「願望&本能」V.S.「意思&意志」の闘争(先生はジレンマでなくコンフリクトという英語を使われていました)についてレクチャーがあり、事例を交えながら話されたあと質疑応答にうつりました。
その質疑応答がとてもおもしろく、ひとことでいうと「とぼけるな」ということなのですが、先生はこんなふうに回答します。


ある人が、授業の中にあった事例の一部を取り出して「願望が満たされていない限り、啓示は役に立たないということでしたが…」と質問をし始めて、先生が「待て待て待て。それは疑わしい(そんなことは言ってない)」と話す一幕がありました。
たしかに「こういう書いてある書物もある」という事例とともにそのフレーズが授業の中に出てきたけれど、どうやら質問者が確認したい文脈は先生の意図と違うようです。質問者は「まずは願望を満たすべきなのだ」の、「まず」を確認したいみたい。
そのとき先生はこのように話しました。

 

 

わたしはショッピング・リストの話をしたのではありません。区別する心理について話しました。
ひとつヒントを出しましょう。たとえば水。ここにインドの水があります。これを飲めば下痢をします(笑いが起こる)
あなたが水を飲みたいと思うときの水は、これではないですね。フィルターされた水でしょう?

 

 

そもそも前提としている条件すらも実はちゃっかり選んでいるもので、そこにも願望はあり、そういう願望を見くびるなという話をされていたのだと、このやりとりから理解を助けてもらいました。

 


このあと、別の人がこんな質問をしました。

「それが願望なのか願望ではないのか、わからないことがあります。たとえば今日、先生が事例でお話しされた、チョコレート。わたしはチョコレートを選んで食べたいと思ったわけでなく、でも食べる。そういうことがあります」


この質問者の話を聞きながら、わたしはまるで友だちが話しているように感じました。「なんか食べた、というような感じのときもある」というような話し方で、とてもチャーミング。
その人に先生はこのように返答しました。

 

 

うん。そうだね。
ところで、チョコレートを食べて、ライスを食べないのであれば?

 

 

ニヤリとする先生。やさしい笑いが起こりました。
聴いている間は集中力を200%稼働しないとわからないので緊張するのですが、やはりとても楽しい授業です。