「経験の領域。視覚と意識」というエントリーにも書きましたが、わたしにサーンキヤ哲学を教えてくれたシャルマ先生の言葉の中で
everytime new experience
というのが好きです。
先日、サーンキヤ・カーリカーの第17節を読み、自分なりに咀嚼しながらまた思い出しました。この節はプルシャの説明をする項で、グナを感じる経験の主体(享受者)の存在を語ります。
今ごろになって、これはサーンキヤ・ヨーガに軸足を置く先生らしい言葉の選びであるなぁと、このフレーズがじわじわ沁みてきました。
シャルマ先生と過ごした日々のノートは今でもよく読み返すのですが、哲学のクラスの初期の時点で
- 哲学は生活(life)の中にある。
- インド哲学は「心と体は離れていない」というのがベースだ。
という話をされていました。
日本は教育的には哲学になじみが少ない国だけど、「心と体は離れていない」という意識はことわざや熟語に多く見られる。
「君がインドの哲学を理解したかどうかは、君が自分の国の言葉で語れるかどうかでわかる。ぼくは日本語はわからないけどね!」という言葉で送り出すスタンスも含めて、一貫しているのは「生徒自身が、学ぶことの経験の主体として自己を持っているか」を見ているということ。
「あなたの哲学はあなたの生活の中にある」ということなんだろうな。